名古屋高等裁判所 昭和49年(う)281号 判決 1974年12月19日
被告人 棚橋國八
主文
原判決を破棄する。
被告人を懲役四月に処する。
理由
本件控訴の趣意は、検察官作成の控訴趣意書に記載されているとおりであるから、ここにこれを引用する。
所論の要旨は、原判決が、本件公訴事実中第二の公務執行妨害の点について、その外形的事実はほぼこれを認めながらも、被告人の暴行の所為は、任意捜査の段階で、加藤巡査が被告人の退室を引き止めようとして、その左斜め前から両手で同人の手を掴むなどした一連の制止行為に対抗してなされたものであるが、右制止行為は任意捜査の限界を超え、実質上逮捕すると同様な効果をえようとする強制力の行使というべきで、職務の執行として違法であるから、公務執行妨害の構成要件該当性を欠くのみならず、加藤巡査の行為は、被告人にとつては急迫不正の侵害と認められるので、被告人の同巡査に対する暴行の所為は同人の行動の自由を実現するためにはやむをえないものであつて、正当防衛として暴行罪も成立しない、と判示して無罪を言い渡した。しかし、加藤巡査が両手で被告人の左手首を掴むなどした行為は、被告人の酒気検知拒否に対し飜意を促すためにとつた必要かつ相当な説得行為であつて、違法な強制力の行使ではない。また、被告人の加藤巡査に対する本件暴行は、同巡査が被告人の左手を掴んだ行為に対する反撃ではなく、全く新たな攻撃とみるべきものである。これらの点で原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認がある、というのである。
所論にかんがみ、記録を調査し、以下検討を加える。
一、原判決は、被告人に対する本件公訴事実中第一の酒酔い運転による道路交通法違反の訴因については、公訴事実どおりの有罪を認定したが、第二の公務執行妨害の訴因については、所論指摘の如き理由により、犯罪の成立を否定し、結局、道路交通法違反の罪で被告人を罰金五万円に処し、公務執行妨害の点につき被告人に無罪の言渡しをしたことが明らかである。
二、ところで、原審並びに当審において取り調べた関係各証拠によれば、(1)被告人は、昭和四八年八月三一日午前四時一〇分ころ、岐阜市東栄町二丁目一三番地先路上で、酒酔い運転の挙句、道路端に置かれたコンクリート製ごみ箱等に自車を衝突させて物損事故を起し、間もなくパトロールカーで事故現場に到着した加藤征三、古町富一巡査から運転免許証の提示を求められるとともに、アルコールの保有量検査のため風船に呼気を吹き込むよう求められたものの、これをいずれも拒否したので、同巡査らは被告人を道路交通法違反の被疑者として取調べのため、パトロールカーにて被告人を任意同行して、同日午前四時三〇分ころ、岐阜中警察署に到着したこと、なお、当日被告人は、午前一時ころから午前四時ころまでの間、ビール大びん一本、日本酒五合ないし六合程度を飲酒したうえ、軽四輪自動車を運転して帰宅の途中右事故を起したもので、当時被告人の顔は赤くて酒の臭いが強く、身体がふらつき、言葉も乱暴で外見上酒に酔つていることが窺われたこと、(2)被告人は、同巡査らにより、同警察署内通信指令室において取り調べを受け、そこでは、免許証提示にはすぐに応じたものの、加藤巡査らの、飲酒検知は道路交通法の規定にもとづいて行う旨告げての再三にわたる説得に対しても、依然として呼気検査を拒否し続けたため、同巡査らは、同日午前五時三〇分ころ、被告人の父棚橋宮雄の来署を求めて、同人から被告人に対し呼気検査に応ずるよう説得してもらつたが、被告人はこれをも聞き入れず、かえつて、父に反抗的態度に出でたので、同人は自らの説得をあきらめ、やむなく、被告人に対し、母が来たら警察の要求に従うかと尋ねたところ、従う旨の返事をえたので、同巡査らに被告人の母親を呼びに行く旨告げて自宅に帰つたこと、(3)その後、同巡査らは、被告人に対して説得を続けながら、間もなく来署する予定の被告人の母棚橋政子の到着を待つていたが、同日午前六時ころに至り、被告人は同巡査らにマツチを貸してほしい旨申出たところ、同巡査らがこれを断わるや被告人は「マツチを取つてくる」といいながら、急に椅子から立ちあがつて出入口の方へ小走りに行きかけたので、加藤巡査は被告人が逃げ去るのではないかと思い、被告人の左斜め前の位置に近寄つて、「風船をやつてからでいいではないか」といつて両手で被告人の左手首を掴んだが、すぐさま被告人は同巡査の両手を振り払い、同巡査の左肩や製服の襟首を右手で掴んで引つ張り、左肩章を引きちぎつたうえ、更に、右手拳で同巡査の顔面を一回殴打する暴行を加え、その間、同巡査においては両手を前に出してとめようとしていたが、被告人がなおも暴れるので、これを制止しながら、古町巡査と二人で被告人を元の椅子に腰かけさせ、その直後被告人を公務執行妨害罪の現行犯人として逮捕したものであること、(4)なお、被告人が前記の如く頑強に飲酒検知を拒否したのは、過去二回にわたり同種事犯により取調べを受けた際の経験等から、自己の体内に残留するアルコール量の減少を図るため時間を引き延ばし、証拠を隠滅する意図であつたこと、また、被告人が前記のように「マツチを取つてくる」といいながら、突然退去しようとした行為は、当時の取調べにおける被告人の一連の言動及び周囲の客観的状況等に照し、逃走することを十分疑わしめるものであつたこと、の各事実が認められる。前記証拠のうち右認定に牴触する部分は採用できない。
三、以上の事実関係によれば、加藤巡査らが、前記交通事故発生現場に臨み、飲酒運転の合理的な疑いの存する被告人に対し、その場で運転免許証の提示並びに飲酒検知のための呼気検査を求めたことは、捜査官として、交通法規に照らして当然の措置であり、続いて、これを拒否した被告人を取調べのため、警察署へ任意同行し、運転免許証を提示させ、飲酒検知に応ずるよう自ら説得したがなおも応じないため、被告人の父親の来署を求めてその説得に当らせ、これが失敗するや、同人の申出により被告人の母親による説得を予測して、同人の到着を待ちうけつつ被告人の飲酒検査を促していた同巡査らの一連の行動についても、明らかに任意捜査の範囲内の適法な捜査活動と認められるものであるが、問題は、被告人が同巡査らから任意捜査による取調べを受けていながら、途中で退去しようとしたのに対し、加藤巡査が被告人の左斜め前から両手で同人の左手首を掴むなどした行為が、原判決の説示する如く任意捜査の範囲を越えた強制力の行使として、違法な職務執行と認めうるか否かである。
一般に、任意捜査の手続においては、強制にわたることは許されないのは当然であるが、具体的事案において、通常の方法によつては所期の説得の効果があげえない状況が存し、かつ、捜査上緊急の必要性が認められるため、やむなく軽度の実力を用いたとしても、これが直ちに任意捜査の適法性の限界を超える強制力の行使とはいえない場合があると解され、そうとすれば、その限界は、実力行使が当該事案における捜査の必要性、緊急性に即して客観的に相当と認められるか否かによつて決するのが相当と考えられる。そこで、これを本件についてみるに、本件の具体的事案は、前説示の如く、被告人に酒酔い運転の合理的疑いが認められるものであるのに、被告人において、警察官や父親の飲酒検知を促す説得にも頑として応じず、しかも、被告人は高度の酩酊状態にあつて、時に粗暴な言動をなしていたことが証拠上明らかであり、更に、酒酔い運転においては、科学的な証拠保全が最も重要であるところ、当時の時間的状況等から判断して、呼気検査に代る有効適切な方法は他にないというべきであるから、被告人が呼気検査を拒否して立去れば捜査上著しい支障をきたすおそれのあつたことが明らかであり、また、被告人が母親の説得に応じることを承諾したため、これを信じて母親の来署を待つていた加藤巡査らにとつては、被告人が立ちあがり出入口の方へ行こうとした行為は、突然の出来事であつたと認められ、捜査の支障となる行為が急迫してなされたものというべきである。そして、右のような本件の具体的事情の下で、加藤巡査が出入口の方へ向つた被告人の左斜め前に立ち、両手で同人の左手首を掴んだ行為の程度も左程強いものであつたとは認められないので、右加藤巡査の行為は、被告人の飲酒検知拒否に対し飜意を促すためにとつた説得手段として、任意捜査の範囲内の客観的に相当な実力行使と認めるべきである。なお、その直後の加藤巡査の被告人に対する行動は、被告人の粗暴な振まいを制止するためのものと見受けられるので、以上の同巡査の行動をとらえて、被告人を逮捕すると同様な効果をえようとする強制力の行使であり、被告人にとつては急迫不正の侵害に該るものということはできない。更に、被告人が加藤巡査の両手を振り払つた後加えた一連の暴行は、その当時の状況、被告人の暴行の性質、程度に徴し、同巡査から手首を掴まれたことに対する反撃というよりも、新たな攻撃と認むべきであるから、本件は、正当防衛が成立するに由なく、結局、被告人につき、公訴事実第二記載の公務執行妨害罪の成立は免れない。
四、されば、原判決には、所論指摘の如き事実誤認があつて、これが判決に影響を及ぼすことが明らかというべきであり、なお、右の公訴事実は原判決が有罪と認定処断した道路交通法違反の公訴事実と併合罪の関係にあるものとして公訴を提起せられたものであるから、原判決は全部破棄を免れない。論旨は理由がある。
よつて、刑事訴訟法三九七条一項、三八二条に則り、原判決を破棄したうえ、同法四〇〇条但書に従い、更に判決する。
(罪となるべき事実)
第一、原判決が認定した罪となるべき事実と同一である。
第二、被告人は、昭和四八年八月三一日午前六時ころ、岐阜市美江寺町二丁目一五番地岐阜中警察署通信指令室において、岐阜県警察本部広域機動警察隊中濃方面隊勤務巡査加藤征三(当時三一年)、同古町富一(当時三一年)の両名から、道路交通法違反の被疑者として取調べを受けていたところ、酒酔い運転についての呼気検査を求められた際、職務遂行中の右加藤巡査の左肩や制服の襟首を右手で掴んで引つ張り、左肩章を引きちぎつたうえ、右手拳で同巡査の顔面を一回殴打するなどの暴行を加え、もつて同巡査の職務の執行を妨害したものである。
(証拠の標目)(略)
(累犯前科)
被告人は、(1)昭和四三年七月九日岐阜地方裁判所で放火罪により懲役一年六月(四年間執行猶予、昭和四五年一月二一日右猶予取消決定確定)に処せられ、昭和四七年一二月二五日右刑の執行を受け終わり、(2)昭和四四年一二月二三日熊本地方裁判所で、非現住建造物放火罪により懲役二年に処せられ、昭和四六年六月二五日右刑の執行を受け終わつたもので、右事実は検察事務官作成の前科調書によつてこれを認める。
(法令の適用)
被告人の判示第一の所為は道路交通法六五条一項、一一七条の二第一号に、同第二の所為は刑法九五条一項にそれぞれ該当するが、所定刑中いずれも懲役刑を選択し、なお前記の前科があるので刑法五六条一項、五七条により判示各罪につき再犯の加重をし、以上は同法四五条前段の併合罪なので、同法四七条本文、一〇条により重い判示第二の罪の刑に法定の加重をした刑期の範囲内で被告人を懲役四月に処し、原審及び当審における訴訟費用については、刑事訴訟法一八一条一項但書を適用して、被告人に負担させないこととする。
(原審弁護人の刑事訴訟法三三五条二項の主張に対する判断)
原審弁護人は、被告人の加藤巡査に対する本件暴行は、同巡査の違法な逮捕行為に対してなされた正当防衛行為であると主張しているが、被告人の右暴行が正当防衛に該らないことは先に説示したとおりであつて、右弁護人の主張は採用できない。
よつて、主文のとおり判決する。